常磐湯本温泉の来歴


延喜式神名帳(927年)によると、日本三古泉に名を連ねている温泉として、愛媛の道後温泉、兵庫の有馬温泉、それに、ここ「いわき」の湯本温泉が記されている。又、「三函の湯」と呼ばれたこの温泉には温泉神社があったとも記載されているということは、千数百年前には、既に大和朝廷に知られた温泉とそれにまつわる神社があったことになる。

「三函」の御湯の起源は不明であるが、古昔は「私部郷」といって、船尾、湯長谷あたりが湯郷として伝えられている。又、温泉神社には、大己貴命、少彦名命(医薬を司とる神)を合祀してある。幾多の返還を経て、江戸時代以降になると、温泉は人家の間に約50数箇所以上、自然湧出しており、郷人はいにしえより「三函」の湯として伝えており、味は塩辛く、硫化水素の臭気があったとも記されている。

時を経て、常磐地方で安政2年片寄平蔵が石炭を発見したのに伴い明治以降各所に炭鉱が設立され、鉱業の躍進的な振興により日本三古泉の一つに数えられた温泉は衰退の一途をたどっていた。源泉の枯渇が顕著になったのは、明治30年頃からといわれている。
湯本村にとっては大きな死活問題となり明治38年に(温泉保全組合)が結成され、乱掘が規制された。その後、形を変えた湯本財産区が設置されたのが大正2年、温泉面が低下するので現状調査を実施したのが大正8年であった。しかし、時代は富国強兵の主旨のもとに石炭採掘は日に日に増産を重ねることとなるが、大量に湧出する温泉は採炭作業において無用のものとされその存在が危ぶまれた。

昭和に入るとエネルギーの転換に伴う温泉の有効利用が高まり、昭和51年にいわき市、湯本財産区、常磐興産㈱の三者による温泉利用に関する基本協定に基づき「常磐湯本温泉株式会社」が設立された。現在、地下620mに10数本のボーリング坑を設置し花崗岩内の温泉水を、口径400㎜の管により、延長2,000mに渡り、地下164m地点に設けられた、容積200㎥の貯留槽まで自然圧で引湯(58℃)している。
その貯留槽より地上180㎥(RCタンク80㎥、FRPタンク100㎥)に揚湯し、スパリゾートハワイアンズに3.5㎥/分・湯本財産区(旅館、ホテル各家庭など)に2.0㎥/分・併せて5.5㎥/分、送湯し現在に至っている。